日本語の主語「私は」が省かれる理由の考察。

私はこの1ヶ月半で4キロの減量に成功しました。といっても「増えてしまった分を取り戻した」だけなので、体型がもとに戻っただけなのですが。

この減量において、私は「ごはんやパンや麺を食べない」ことを徹底し、食事の回数を一日3回(もしくはそれ以上だった)を2回に減らし、お酒をほぼ飲まず、外食もほぼせず、野菜や豆腐や卵を食べ、糖分は果物で摂取し、加圧トレーニングに週1回通い、(ケーキを食べた日は腹筋を150回やるなど)自宅でも暇さえあれば筋トレをし、体中のマッサージをし、ストレッチをし、ほぼ毎日湯船に浸かり、水がガブガブ飲んでいました。

これだけやって減らないわけがなく、体重はおもしろいように減っていきました。事実おもしろかったので、「どんどん減らすぞー!」っと減量を楽しんでいる自分がいました。今は「とりあえずいつもの体重」になったので、ここからが本当の減量になります。

体重が減るということは脂肪が減ることも意味しますよね。私の体はどんどん変わっていきました。顔周りの肉が減り、鎖骨がお目見えし、手足の脂肪も減り、何より入らなかった服が入るようになった。そこへ、新たな下着屋を見つけるに至り、イタリア製の素敵なブラジャーを買ってみたのです。これが素敵で素敵で。「今までのブラは全部捨ててこのブランドに総入れ替えしよう」と、今は少しずつ買い揃えているところです。

さて、なぜこの話が今日の本題と関係あるのか?
私は気付いたのです。イタリア製の下着は日本製とはまるで異なるのです。なんていうか、「そういう体にはこれでしょ?」という感じといいますか。日本製だと「どんな体にもこれで大丈夫!」という感じじゃないですか。真逆なんですよね。

ここで私は思い出しました。以前友達から英会話を習った時のことです。
「しめじ先生、英語はとにかく“ I ”ですから!」これを聞いた時、私は意味がわかりませんでした。

どういうことかと尋ねると、I think… I want… I said… 英語では、「私が〜」という言い方をするというのです。日本語では「自分自分うるさいわっ」ってな感じで、「私が私が」なんて言う人は嫌われるじゃないですか。それの真逆です。「あたしが」を言えないと通じないというわけです。

欧米人って、何かと体を鍛えるじゃないですか。
ニューヨークに行った時、明らかに「ヨガ帰りですね」という、お腹丸出し・ピタピタウェアを着た女性を見かけました。ぴらっぴらの下着みたいな服で歩く女性もいたし、「私の体のラインを見なさい!」と言わんばかりの上下ピッタピタの服を着た女性を地下鉄のホームで何度も見かけました。また姿勢がいいんだ、これが。むちゃくちゃカッコいい。だから見ましたよ!めっちゃナイスバディでしたよ!!

ということなのですよ。もうおわかりでしょうか。

欧米人は「私は」「私が」という主語で生きていて、日本人は「〜したよ」という動詞で生きている。何をしたかはわかるけど、誰がそれをしたのかがよくわからない。小説を読んでいる時、不親切な小説だと「今のくだりは誰のセリフ?」と感じること、ありませんか? あれですよ。主語がなくても通じる言語、それが日本語です。

例えば、「○○だと思ったんだよね」と言ったとする。すると相手が「え?」と眉間にシワを寄せた。「まずい」と思ったあなたはこう付け加える。「なんか、そう言ってたよ、○○ちゃんが」。

こういう「後出し」ができる言語、それが日本語。これが英語だとそうはいかない。「こう思ったんだよね」という時点ですでに“ I think…”と言っているので、取り返しがつかない。こうなると、自然と自分の発言に責任を伴うようになりますよね。発言に責任を持つなら、自分の行動にも責任を持つようになるでしょう。

例えば、ニューヨークに行った時、私は本当に困ったことがありました。たかだかチキンを1つ買いたいだけなのに、「部位はどこだ?」と聞かれるのです。「部位?え、じゃあ胸肉」と答えると、「どっちの胸だ?」と聞かれる。「胸肉に種類があるのかよ!」とキレそうになってメニューを見ると、そもそもチキンの種類が6つもある。「マジか……」本当に驚きました。食べたい部位も決められない人間は、ニューヨークではチキンにもありつけないのです。

自分が主体か、相手に自分を合わせるか。これは国民性ということになるのでしょうか。そりゃあ全員が全員そうではないと思いますが、日本という国にいて「自分が主体」の人はきっと「変わり者」と言われたりするのでしょう。もしくは日本での居心地が悪くなり、海外に飛び出していく。実際そういう友達が私にはいます。

「なんで日本語は主語がなくても通じるの?」ずーっとそれが疑問だった私は、自分の減量体験がきっかけで、やっとその理由にたどり着きました。すごく嫌な言い方をすれば、日本は「後出し文化」と言えるのではないでしょうか。主語を省いておくことで、「後で言い訳ができる」わけです。

もう一つの言い方をすれば、「慮る(おもんぱかる)」や「察する」という言葉があるように、日本語には「私が言いたいことをなんとく感じてちょうだい」という、相手に重きを置いた表現があるのですよね。ちなみに、「慮る」をグーグル翻訳にかけると、「Take care」という英語が出てきました。え〜? なんか違いますよね?

この論理でいくと、日本は「なんとなく文化」とも言えるかもしれない。「なんとなく生きている」とかっていうじゃないですか。ちなみにそれをグーグルで検索しようとすると、予測変換がこんな感じになりました。

みんな困ってる。「なんとなく」で困ってる。困るどころか息苦しくなっている。生きづらいとまで言っている。これは大変なことですね。

だから日本は「考える教育」を始めたのでしょうか。始めるのはいいのですが、「決めごとに守られてきた日本」で浸透させるには相当の時間がかかるでしょう。だって私はそういう国で育ってきて、アメリカに行ってチキンひとつ選べませんでしたから。

ということで、
文章プロデューサー大竹ひろこ的、日本語の主語「私は」が省かれる理由の考察、いかがでしたでしょうか?

この話では「良い悪い」ということではなく、ただ単に「違う」ということをお伝えしています。その「違う」ということこそが、新たな発見につながり、人生をおもしろくしていくと思うから。